思考の小部屋

考えてはいけないことを常に考える。それはきっと喜ばしいこと。ここは普段表に出さないことをぶちまけるダークサイド。

アナログとデジタルの境界と思しきもの

iPhone11 Proにスマホを変えてから、ここ最近、ずっと思案していた。

デジタルカメラは今後どうなるのか」
デジタルカメラは自分にはもはや不要なのではないか」

と。

数々の識者の方々がすでに議論し、議論しつくされた感もあるが、自身の中で考えを巡らせていた。

多くの識者と同じく、私もこの先デジタルカメラは、スマートフォンに淘汰されるのは避けられないと感じている。

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現状は、センサーやレンズといった、ハードウェアの物量差によって、デジタルカメラは優位性を保っているが、スマートフォンの演算性能が飛躍的に高まってきている状況を鑑みると、見てくれのいい写真はもはや、ハードウェアで「写す」のではなくソフトウェアで「生成する」時代になってきていると思う。それを、昨年末に買ったiPhone11 Proの吐き出す絵から、ひしひしと感じるのだ。

さらに、デジタルカメラスマートフォンで撮影された写真の消費の仕方自体も、PCの画面やスマートフォンの画面がほとんどであり、重厚長大なハードウェアから生み出される高精細な画像は、必要とされてないと感じている(等倍にしてじっくり観察するのが趣味なら別だが、ほとんどの場合において、見てくれがよい写真が望まれる)。事実、私がα7sにのりかえた理由の1つは、1200万画素で十分と感じたからだ。

そして、そのα7sに乗り換えた理由の2つ目である、夜間撮影に関しても、前述のとおりiPhone11 Proで代替できると感じ始めたとき、この先、デジタルカメラは自分にとって必要なのかと考えずにはいられなかった。

そんな中で、過去、自分がわざわざ、ガラケースマホのカメラではなく、デジタルカメラに手を出したのは何故かを振り返ってみたのである。

社会人になり、会社の用事で備品のミラーレス一眼を使うことになった時、シャッターの駆動する感触と音に心を惹かれたのが、デジタルカメラに手を出した始まりだ。何故心惹かれたのか、よく考えてみた。

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大学、高校、中学とさかのぼり、デジタルカメラからは縁遠い生活をしてきていた(そもそも写真というものに興味がなかった)が、小学生までさかのぼった時に、ふと思い当たる節があった。

それは小学生の時に、使われずにタンスの奥で眠っていたPentax-K2で、親父がタバコを吸っている様子を撮影した時だ。ダイヤルがゴチャゴチャついて異様な重量のそれは、小学生の私には意味不明な機械で、なんで同じカメラでこんな操作がたくさん必要なのかわからんと思ったものだ。
(当時我が家では、「写ルンです」が通常使われていた)

だが、親父に適当なレクチャーを受けてファインダーをのぞいた時の、光の鮮やかさと、シャッターを切った時のびっくりするような音は、鮮烈だった。そして後日、撮影した写真は現像されて手元にやってきたが、それまでの自分が知る写真というものとは、別次元の写りだと、子供心に思ったものである。

その時の感触、体験が忘れられないのだ。だから、私は社会人になって、デジタルカメラ(ミラーレス一眼)のシャッターの駆動する感触と音に心を惹かれ、当時NEX-6に手を出し、α6000、α7sと乗り換え、現在に至っている。

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長く自分の意識の表層から忘れられていたが、わざわざデジタルカメラを購入して使い始めたのは、そのような経緯であった。さらに、その当時の経験から、自分はカメラに何を求めていて、撮影の何を楽しみとしているのか、もう少し考えてみた。

幸い、これ以上ないヒントを与えてくれるものが手元にすでにあった。そう、親父のPentax-K2である。

私はこれを、現在の価値からするとバカらしいほどの費用をかけてOHし、フィルムを装填し、この1年で少しずつ持ち出して使ってきた。そして、つい先日、改めて持ち出して使ってみて、iPhone11 Proやα7sでは得られない、心惹かれる要素がわかった。

「自分の目で直接受けた光で構図を決める」
「どのように写るかは、自分の意思と体調次第」

この2点である。

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私は、キレイな、見てくれのいい写真を「記録」したいわけではない。その場で、自分の目で直接見て「あっ」と思ったものを、その時自分が感じたように、体の感覚まで含めて、「記憶」したいのである。事実、小学生の時、親父の写真を撮った時の「記憶」は、今も残っている。

α7sはよいカメラであると思う。だが、OVFである点やAF機構(これはここ最近MFのレンズばかり使っているので当てはまらないが)によって、その存在をスマートフォンのカメラと同列にしている。記録される完成イメージが目の前にあり、シャッターボタンを押すだけで撮影が完結してしまうので、記憶に残らないのだ。

スマートフォンはなおさらである。そもそも、吐き出される絵は、自分が見た瞬間のものですらない。ボタンを押した前後の数秒間に加工された画像を、何枚も合成して生み出された「CG」である。

そうして、私がこれから「記憶」をするために辿り着いたのがこれである。

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まさか自分がここに来てしまうとは思わなかった。値段が高いだけの代物とバカにしていたが、私が心惹かれる2点を満たし、より多くの「記憶」を作り出してくれると思える道具が、これだったのである。

デジタルにはデジタルの良さがある。アウトプットの管理が楽であるし、処理に時間を要さない。だが、デジタルの利便性を追求していくと、人の意思や記憶といった、アナログな要素から切り離された、つまらないものになってしまう。

この道具は、そのぎりぎりの境界にあると思うのである。

(iPhone11 Pro, α7s, Carl Zeiss Biogon T*28mmF2.8, Carl Zeiss Sonnar T*90mmF2.8, SMC Pentax-M 50mmF1.4, Sony Vario-Tessar T FE 24-70mm F4 ZA)